松本英彦と三木敏悟 サックスレッスン

2021/09/21

僕の二人の先生をご紹介したい。言うまでもなく、松本英彦は、日本で戦後最高のインプロヴァイザーと言われる方である。戦後といっても、応仁の乱ではなく、太平洋戦争(大東亜戦争1936-40)の事である。インプロヴァイザーとは、即興演奏する人、主にジャズ奏者のこと。 戦時中は、耳の良さを買われて、通信兵として活躍され、終戦後、キャンプの時代から活躍、トランペットからサックスに持ち替えると、半年後には、テナー部門の人気投票上位にランクされたという。 キャンプとは、日本がマッカーサー率いる占領軍が今よりずっと多く駐留していたので、将校クラブ、下士官クラブとバンドが沢山入っており、駐留軍に本国からバンドを連れてくるわけにいかないので、現地調達ということで、日本人のバンドマンが駆り出されて、見よう見まねでアメリカの音楽を演奏する人が多く居たということだ。日本人ジャズマンはアメリカ軍のお陰で成長した。 東京駅に、バンドマン募集トラックが来て、はいはい、サックス、トランペット、ピアノ、ベースはいないか?と声をかけて、手を上げるとトラックで運ばれて、厚木や立川の米軍キャンプで演奏。 キャンプ内は、アメリカなので、豊富な物資に、少しでもいい演奏をするとやんややんやのアメリカ人気質に待っていましたとジャズに没頭する先輩たちの姿が目に浮かぶ。 当時はもちろん、インターネット、CD,LP、カセットテープなどもあるはずはなく、SP盤というレコードは3分しか録音できなかった。 松本先生は、すでに日本最高のテナー奏者で、可能な限りのジャズのサックスのレコードはすべて所有していたそうな。レコードコピーを何回もするとレコード盤がすり減って、同じものを何回も買いに行ったとか。昔の音楽家の苦労がしのばれる。 先生は、ご両親が、尺八と三味線の師匠だとお聞きしている。幼少から音楽を聴き、生来の耳の良さが鍛えられてジャズが入ってきてもすぐ対応できたのだろうと想像される。 20代で先生とお会いした時に、サックスの技術というより、その耳の鋭敏さ、フレーズを組み立てる構築力の素晴らしさに感動したものだ。 それまで膨大な量のレコードコピーだけで進んできた僕に、フレーズを考え構築するというやり方が注入されたのだった。 当時、バークリーから戻り、ジャズ、スタジオ、ロック、クラシック業界からの精鋭を集めたジャズオーケストラ、インナーギャラクシーを結成したばかりの三木敏悟が、日本の大物松本英彦に共演を依頼してきた。 菊地も行くか?ということで、父親のような松本先生と同時期に、僕も先生のカバン持ちとしてオーディションを受けることになった。 不安な僕の顔を見て、松本英彦は、にっこりしながら言った。僕も同じ気持ちだよ。 先生の優しい思いやりに、今思い出しても、胸が温かくなる。 秋田の田舎から出てきて6年、田舎の青年だった僕は、無事合格して、長い年月が経ち、今では仲間からは看板奏者で、なくてはならない人だと言ってもらえるようになった。 さて、三木敏悟とインナーギャラクシーオーケストラでは、国内のコンサート、海外遠征と素晴らしい経験を積ませてもらうのだが、個人的に三木先生の作曲アレンジコースにも2年通った。 音楽理論も、ナベサダの本などで独学していたが、音楽をすべてを倍音列から、物理現象として説明する明快なバークリーメソッドに感動、開眼した。 また作編曲にも興味や意欲を持ち始めたのもこのころである。 その後数十年の時を経て、コロナ渦の現在、ライブはダメ、みんな怖がってレッスンも足が遠のく、その状況でできることは何かと考えると、僕の経験をネットでみんなに伝えたらいいじゃないかと思いつく。 10年やっても登録者200人少しだったユーチューブが、新しいチャンネルで、オンラインジャズカレッジを始めたら。おかげさまで、1か月ですでに登録者100人を突破しているのに驚く。 今まで儲けさせてもらった商売のネタを、後から来る人にただであげなさい、もっと大きなことができるよとは、日本納税者番付でずっと1位だった斎藤一人さんの言葉。 良し、俺も実践しよう! モーツアルトやバッハなど、昔の偉大な芸術家の作品は時が来ると人類全体の文化遺産となる。菊地が演奏したり教えていることも、二人の偉大な先生の業績をちょこっと自分なりの工夫をして、自分の人生経験を乗せて出しているだけである。 より多くの人に僕の学んだ知識、知恵を提示、共有して、日本の音楽文化の底上げに貢献していきます。お楽しみに!! 菊地康正のオンラインカレッジ vol.10 vol.11