人は、赤ん坊で生まれて、両親、兄弟、先生、友達、周囲の人々、地域、国、世界、自然の御陰で生きている。
たまたま愛情をたっぷりもらって育った人は、愛されることは素晴らしいと知っているので、大人になって周りの人に愛をあげることの出来る人になるだろう。
子ども時代にあまり愛に恵まれなかった人は、不可能ではないが、愛を出すのが難しいだろう。車の燃料のようなもので、空っぽのガソリンタンクや充電が十分でない車はパワーを出すのが難しい。
愛には2種類あって、太陽の光のように、見返りを求めないで、無条件に悪人も善人をも照らす光のような愛もあれば、これだけしたのだから、貴方も、同じように返しなさい、返さないと、罰する、拒否する・・と言う態度の人も存在する。そのような愛もある。取引の愛と名付けよう。厳密には愛とはいえないかもしれない。
仏典には、親から受けた恩を返すのは両親を肩の上に乗せて歩くくらい不可能でそれは深いものであるとある。親と離れて暮らす人は、時々元気だよと電話をかけることだ。それと自分の人生を精一杯生きること。
通常の世の中は、労働力や技術で世の人に貢献する、それは仕事と呼ばれているが、それには値段が付いている。僕は牛丼が大好きです。だからただで牛丼食べさせて!と牛丼屋で言っても、追い出されるのは目に見えている。
同じレストランでも、美味しくて感じの良い店だったらそれなりに繁盛するだろうが、そこに行くと発見があり、食べ終わると特別の体験が、入った人を出てくるときはもう、別の人にさせる場所だったら、そこは神聖で特別な場所になる。
人は喜んでお金を払うだろう。この値段でこの体験が出来たら安い!と思わせることが出来れば、その人は豊かになるのだろう。人を豊かにしたのだから当然そうなるだろう。
僕の場合は、それなりに長い演奏家、教室で教えてきた経験で、音楽を学ぶ人に、特別な経験をしてもらいたいといつも願っている。
1970年代にマイルスがロックビートや電気楽器を取り入れたとき、これはジャズではないと否定的な人と、新しい世界が来たと喜んだ人に別れた。
僕は後者で、今まで親しんだ白黒テレビが、カラーテレビになった衝撃だった。僕の教室では、そういう今までの世界がガラガラと音を立てて崩れ、世界が塗り替えられる衝撃の体験、パラダイムシフトを体験して欲しいと願う。
演奏に値段を付けるのは難しい・・。ポピュラー音楽の場合は、流行があり、社会現象でもあるからだ。
日本古来の雅楽は、当時の中国、東南アジアの色々な国の音楽のフュージョン(融合)だった。中国、東南アジアではもう廃れて誰もやらない音楽が日本には残っている。
アメリカはポップスの国だから誰もジャズなんか知らないし、ジャズのレコードがほしかたっら日本へいけという風に日本は文化を保存する国なのだ。
さて愛の話に戻ろう。人には持って生まれた素質傾向があり、皆違う価値観を持っている。
本当に人間的に成長した成熟した人とは、自分とは違う価値観を認めることが出来る人のことである。
逆に言うと、どこまで広く、自分とは違う価値観を許容できるかが、その人の成熟度のバロメーターになると言うことだ。
未熟な人は、自分の価値観を人に押しつけて従わせて喜んでいる。面従腹背と言う言葉も有るとおり、それは、適当にあしらわれているだけなのである。
自分の過去を振り返ると、自分にとって価値をあまり感じない人は、目立たないように遠ざかり、俺には関係ないと自分の判断で世の中を泳いできた気がするが、数十年を経て、再会をすると、その人が人格的にも社会的にも立派な人になっていて驚かされることがある。
過去の自分の判断を恥じるとともに、人間は成長成熟するものなのだと言うことを学ばせてもらう良い機会としよう。
例え、社会的には目立たない人であっても、物腰が柔らかく、柔軟で、そばにいると楽しく、ユーモアがあり、何かパワーをもらえるような気がする人もいるものである。
まだ科学では解明されていない未知のエネルギーがそこには飛び交って、充電し、ガソリンタンクをいっぱいにしてくれる人なのだ。算数で言うと足し算やかけ算の人である。
引き算や、割り算の人は、それとなく距離を置き(将来的な成長の可能性も認めつつ)足し算やかけ算の人にそばに居るようにしよう。
僕は、そう言う人になりたい。
人生は算数なのだ。